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2011年11月

2011年11月19日 (土)

屋久島移住記(2011年3月) ~移住準備~

屋久島には賃貸住宅は需要に供給が追いついておらず、タッチの差で空室なしとなってしまったが、
わずかな望みとインフラ確認を兼ねて、まずは下見目的で屋久島へ行ってみた。


Higasitennbou ●3月26日 曇
鹿児島市内のホテルに前泊して、8時半発のフェリー屋久島2で島へ向かう。
いつもはイモ洗い状態の二等客室でも、今回はオフシーズンだけあってスカスカ。
余裕こいて寝ていると屋久島の不動産屋YPから電話着信。
何事かと思ったら、早口で「物件案内は今日にします?明日にします?」旨の問い合わせ。事前連絡のメールでは明日を指定していたのだけど、何やらせっかちな人だ。(電話の主はYPのMさん。後々お友達になる。)
島が近づくと、空気はよく澄んでいて奥岳のシルエットどころか残雪の細かいところまでくっきり見えた。気分は色々複雑だが、何となく明るい兆しがあったと思った。
12時半すぎ上陸しいつもの宿、晴耕○○にチェックインしに行くが、まだ誰もいないのでそのまま島を時計回りにドライブする。
人通りは少ないがレンタカーは結構すれ違う。大学の卒業旅行者かいな。
島を2/3周もしたところ、昨年末に完成したという東シナ海展望所に到着。
おお、昨年までは看板が立っただけの空き地だったのが、プチ道の駅みたいに立派になっている。東屋の他、親子亀の彫刻もあるが、ゾウガメのような足を持っているのが大いなる謎であった。(屋久島名物は、ヒレ状の足を持つ海亀デス。)
一周終わると17時。宿のチェックインには程よい時間だ。いつも宴会場兼キッチンのすぐ後ろの部屋に案内されるのだが、今回は珍しくちょっと離れの台所付客室だ。
いつもの宿の夜は、いつも通り客同士の座談会で暮れていく・・・

Sakura ●3月27日 晴
朝、宿のオーナーS郎さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら他の宿泊者も交えて談話する。ピークは過ぎたが、どうやら桜が見ごろだそうだ。
9時半に予定通り不動産YPのMさんが迎えに来てくれて、東は吉田から西は平内まで物件を紹介してもらう。賃貸住宅は今のところ空きの予定がないので、購買物件の案内のみになってしまった。移動中に桜を意識して探すが、県道沿いは既に葉っぱばっかりだ。
これから賃貸の空きが出たら連絡もらえるように念押しして13時ごろ宿に戻ると、宮之浦の憩いの森公園の桜が見事だったとの情報をもらう。
早速そこにかけつけてみると、思わず息を呑んだ。
丁寧に刈り込まれた芝の中、枝振りの良い桜が何本も立っており、みな一面に花を纏っている。桜の下では2組の母子がピクニックしており、ちょっとまぶしい日差しと花びらを浴びながら、思い思いに駆け回る子供たちの様子は何やら別世界のようだった。
花で連想したが、栗生の石楠花公園は毎年GWで開花終盤だったので、今ならどうだろうと思い立ち、ついでに南端まで足を延ばすしてみる。
16時半すぎ、そして着いた石楠花公園。期待通りの満開状態で、写真を撮るポイントが多すぎて困る程だった。
ここまで来たからと、昨日に続き島一週する事にする。永田灯台に沈む夕日もオツなものだった。
一番の目的である住居確保は次回へ持ち越しとなったが、別の収穫はあったので幸せな気持ちで宿に戻る。
いつもの宿の夜は、いつも通り客同士の座談会で暮れていく・・・

Apato ●3月28日 雨
朝、いつものように宿のオーナーが入れてくれたコーヒーを飲みながら昨日の成果について話していると、別の不動産屋でバイトしている友人から空き物権の話を聞いたと、女将のA子さん。早速紹介してくれる事になった。おお、ありがたや。
安房に移動して、A子さんとその友人で松峯に住むM代さんに合流する。
1件目は、安房川沿いの一軒家。戦前から建っている古い家で、住人のおじいさんが亡くなったので空いたとの事。残された家具や調度品が丸々一式(ついでにおじいさんの仏壇付き)使わせてくれるとの事で、結構惹かれる。
2件目は、M代さん勤めの不動産屋YFのIさんを呼んで、ヤクスギランド線入り口近くの2階建1DKアパート。屋久島軒並みの高い家賃だが、築1年で屋根つきベランダもついている。AさんとMさんは、古い家はいろいろ問題(虫?)も出るので、これはお勧めだという。他の住居人は独身の学校先生ばかりらしいから、いい出会いあるかもよ~、と冷やかされる。(後に、この情報はうわべだけの間違った情報だと知る事となる。)
他にも希望者がいるのため明日まで回答するように念押され、その日は解散する。
いつもの宿の夜は、いつも通り客同士の座談会で暮れていく・・・

Miokuri ●3月29日 晴
宿のオーナーのS郎さんは以前から『ビッグストーン』というバンドを組んでいて、メンバー全4名うちS郎さんとY下さんが昨年8月、福岡でトークショーとミニコンサートを開いてくれた事があった。そのとき本職が写真家であるY下さんの写真集を代金前払いで注文したが、未だに送られてくる気配がない。

朝、いつものようにオーナーS郎さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら、のんびり待っているので島に引っ越したらその事についてよろしく伝えたところ、何とS郎さん、電話でY下さんを呼び出された。平謝りで駆けつけたY下さん、目の前で墨を磨って写真集にサインを書いてくれた上、「引っ越されたらビッグストーンのホームコンサートを開きます」とおっしゃられる。島を代表する写真家の方にそこまでされるのは恐れ多いし、どうもてなせば良いのか困ってしまうので、流石にコンサートまではお断りした。

宿をチェックアウトした後、島の家電店を回って洗濯機や冷蔵庫等の値段を調査する。
正午すぎ、宮之浦港に着くと、本日乗るフェリーの前に二百人はいそうな人だかりができており、吹奏楽隊の演奏や万歳三唱でえらく盛り上がっている。
船のフェンスには、
『祝ご栄転 ○○学校  ビール大好き○○ちゃん ○○○○先生』
『祝ご栄転 ○○学校  こだわりの熱い女 ○○○○先生』など
わざわざ業者に発注ような立派な垂れ幕が付けられており、人だかりの手には様々なのぼりや横断幕が握られいる。
学校や財団で任期を終えて島から戻られる方の見送りらしい。
乗船して客室から眺めると、何十本ものお別れテープが見送る人と見送られる人の手を繋いで、まるで七夕飾りのように張り巡らされている。こんな熱烈な見送り風景、今の時代にもあったのだなぁ。先生、絶対泣いているよ。
やがて船は出港し、お別れテープが見送りの人の手から離れるのを眺めながら、昨日紹介を受けたアパートに決める事にし、不動産屋のYFとYPにそれぞれ注文と断りの連絡する。
それから一眠りして4時間後、鹿児島南埠頭に到着。
窓から眺めていると、今度は『お帰りなさい ○○○○先生 ○○小へ』と書いた2枚の模造紙を持った迎えの人が総勢十数人、寒そうに待っていた。事情は分かるが島人との温度差に笑ってしまった。
その日は港近くの温泉ホテル「アク○ガー○ンホテル福丸」に一泊する。床がなぜかタタミの変な風呂場だった。

Zerozeronana ●3月30日 晴
F銀行鹿児島支店で手付金の振込みを行ったあと、
以前から気になっていた坊津の『007は二度死ぬ』撮影記念碑に遠回りして帰路に着いた。
細い道がくねくね続くので結構しんどかった。
4月に入ってからは、失業給付の説明会出席、役場や病院、買い物などの用事を済ませ、 10日の父の誕生日を祝った後、引越しの準備に取り掛かる。
荷造りには余裕を持って4/11~4/15の5日間用意したつもりだが、元々片付けが大の苦手だけあって、引き取りのぎりぎりまで掛かってしまう。いやー、在職の頃に転勤させられなくてつくづく良かったと思う。


次回はいよいよ島引越しへ。
(屋久島移住記 ~1ヶ月目~)へ続く

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屋久島移住記 ~序章~

「屋久島に住むという貴重な体験をするのだから、日記書
いて」と方々から催促があったので、へたれな記録を書くことにしました。
まずは背景と移住準備前夜まで・・・



Tubotake_4 ●移住に憧れるようになった経緯:
屋久島との初めての出会いは1997年夏。『もののけ姫』に沸く世間を余所目に「九州本土一高い山(九重中岳)は何度も登ったけど、九州一高い山に登るのだ」と職場仲間と宮之浦岳縦走だけをしに来た。
そのときは体調を崩して景色を楽しむ余裕も無く、他の観光名所も回らないスケジュールだったので色々心残りがあり、翌々年にリターンマッチしたところ、改めて自然の広大さと美しさ(屋久島は縄文杉のいる奥深い『山』のイメージばかりあるけど、海亀の産卵数日本一の綺麗な『海』、綺麗すぎて上流の方は魚も住めない程澄みきった『川』、ちょっと人里離れるだけで満天の星を見せてくれる綺麗な『空』と魅力多彩。)
また、島なのに一週間あってもまだ足りない見所の多さに虜になってしまう。
その後も毎年1~3回通い続け、そのうち「定年後にでも移住したいけど、出来れば体力あるうちが良いな」と夢を持つようになる。

●移住を決めた理由:
2010年度末、後述の経緯にて18年近く勤めた会社を辞める事にした。
そこで、地元福岡で再就職しても、今までみたいに一週間休みを貰えるとは限らず、毎年屋久島で羽伸ばしする生きがいが無くなりそうなので、そうなる前にいっそ気の済むまで住んでみたい、と考えた。

  

Tenpo_2 ●退職から屋久島移住準備着手まで:
2011年2月28日の退職から明けて、3月一週目は会社から送られてくる退職書類を待ちながらお世話になった方の挨拶周りや羽伸ばしをする。リニューアルして豪勢になったばかりの博多駅から遠く離れるのは惜しい気がするが、人ごみが生理的に駄目なので、まあ良いかと思うことにする。
3月2週目末からは『東京に単身赴任している義兄を頼って本社関係の人に挨拶して、その足で大阪の姉の家にお邪魔して親しい同僚にも会いに行く』という計画を立てていたが、旅行カバンを引きながら東京の人ごみを歩かないといけないと考えていたらげんなりしてきた。仕事辞めて気落ちしている所為もあるが、元々上京初だった日に「翌週に予定を延ばして大阪だけにしよう」と考えながら福岡の家電店で島で使うUPSを選んでいると、TVに信じられない光景が映っていた。東日本大震災の大津波である。あまりの惨事にその日は買い物もする気が失せ、夢である事を期待しながらその夜は床についたが、翌朝目覚めるとやはり夢ではなく愕然とした。また、東京も帰宅難民が大勢出たとの事で、当初の予定通り旅行初日だったらどうなっていた事かと思う。(義兄は仙台へ飛行機で向かう予定だったが、まだ発つ前で、自宅も職場近くに借りていたので難を逃れたそう。)
原発も緊急事態で日本がどうなるのか気が気ではなかったが、姉からいつ尋ねてくるのか問い合わせもあったので、3週目明けに大阪だけに行くことにする。
今まで屋久島一筋だったので一度も行った事が無かった姉の家に泊まったし、親しい同僚にも会えたし、以前から憧れだった日本一低い山=天保山にも登頂でき、とりあえずは目的は達成したと思う。
大阪から戻ったところで、ようやく屋久島の賃貸物件探しに取りかかる。屋久島には賃貸物件が非常に少なく(アパートはあるが、マンションというものが存在しない)、家賃も博多駅周辺と同じ位かかって調べた当初は凄く驚いた記憶がある。数ヶ月前からインターネットで状況をチェックしていたが、2月以降は空きが全く無い。もしかすると何か隠し物件もあるかもしれないと淡い期待を持ちならが、現地の暮らし調査も兼ねて3月27日~30日の屋久島訪問をセッティングする。

  

Working3 ●退社への経緯:

会社を辞めた理由をこそこそ質問される事があるので、ついでに記します。
関係者の方の言い分もあるとは思いますが、私の見解です。
(決してトラブルを起したのでは無いですよ~)

とある福岡のソフトウェア会社に18年前入社後、開発部門と営業部門を経て、十年前に支社を取り纏める業務支援部門に配属された。
当時5人居た部門員も徐々に減らされ、2009年にとうとう自分一人になってしまう。対して規定追加などで全体の仕事量はじわじわ増える一方で、こりゃたまらんと近年は近い部門の人に作業の一部を担当してもらっていたが、やがて人事異動でそれもまた一部戻ってくる始末。
2010年明けには流石にパンク気味で、『一人事務室に残って日付が変わってから帰宅し、8時半厳守でまた出社(睡眠4時間前後)』という生活を毎日続けざるを得なくなり、精神的な疲れが溜まると高血圧で一時的に目が見えなる事(閃輝暗転)が増え、 やがて、頚椎症神経根症も発祥して首や腕に痛みが出て1分も下を向くことが出来なくなってしまった。(写真は下を向けなくなったときの装備。社内で結構ウケてた。)
それでも、上司は社内統合化で畑違いの人で固められているため、私の抱えている仕事の内容をよく理解してくれず、またこれでも職場では若い方で体格も良いからなのか体調不良でふらついていても誰も心配してくれない。作業遅れが出ても尻拭いは自分しか出来ない。上層部に相談すると「これから親会社からの発注が減る見込みで楽になる」との気休めを言われるのみ。(実際は、その後自主事業部門が事業拡大をはじめたり、同時に辞めた先輩社員が「ボクのもっている持っている仕事をつぼちゃんに譲ろうと思ってた」と聞かされたりで、辞めたのは本当に正解だった・・・と思う。)
冬になっても体調の回復見込みも無く「このまま障害者になって会社に捨てられてお仕舞い、って展開になりそうだなぁ」と将来に不安を感じていた折、早期退職優遇制度の募集が開始される。
会社のレールから外れるのに不安はあるが、惜しむようなキャリアないし、これから出世する願望も見込みもないし、バブル崩壊直後に入社してから景気の良い話は一度も聞いた事ない。長い時間悩んでいたが、これを逃すと次は無いと申し込みを行い、制度期限一杯の2011年2月28日に円満退社したのである。

                   以上

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